松江地方裁判所 昭和45年(わ)31号 判決 1975年8月19日
主文
被告人を罰金一万円に処する。
右罰金を完納することができないときは金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、国鉄労働組合(以下国労という。)米子地方本部浜田支部浜田駅連区分会の青年部長であるが、昭和四五年三月二四日午後八時三八分ころ、浜田市浅井町無番地国鉄山陰本線浜田駅構内において、同組合員約一〇名とともに四番線上の第四五〇貨物列車の北側壁面にビラ多数を貼付していたところ、浜田地区春闘現地対策本部員である米子鉄道管理局職員祖田邦雄らにこれを制止され、糊のついた刷毛とバケツを持ったまま、右貨物列車と五番線上の貨物列車との間を西方に引き揚げ始めたのであるが、被告人の約一メートル後方を追随していた右祖田が後続していた同僚の対策本部員に、この男がリーダーらしいな、と語りかけているのを聞き、祖田に糊を振りかけることによっていやがらせをしようと意図し、左手に所持していた刷毛(長さ二一センチメートル、巾約五センチメートル)を左肩上から後方に振り、更に刷毛を下に降ろし後方に振りあげて祖田の顔面、肩、胸部などに糊を振りかける暴行を加え、よって同人に対し、加療約一週間を要する右眼外傷性角膜炎の傷害を負わせたものである。
(証拠の標目)≪省略≫
(弁護人の主張に対する判断)
一、弁護人は、「(一)被告人は本件の犯人ではなく、犯人と間違えられて逮捕されたものである。(二)本件が何人の行為であっても、刷毛を振る行為は被害者の身体に糊をかけることを目的としたものではないから、これは刑法二〇八条の暴行にはならず、これが暴行とされても糊が被害者の眼に入ることまで予見することができなかったから、傷害罪は成立しない。」旨主張するので、以下順次これらについて検討する。
二、先ず、≪証拠省略≫によれば、判示事実が認められるのであるがさらに≪証拠省略≫を綜合すると、次の諸事実が認められる。
(1) 国鉄は、昭和二四年以降国鉄総裁の通達により、国鉄の建築物その他の施設などについて管理者の許可なしに文字、絵画などを掲載し又は掲示することを禁止していたが、国労浜田支部においては昭和三五年ころから日常の組合活動として組合員がロッカーにビラを貼っており、これに対して当局側は事実上右ビラ貼り行為を放任していた。
(2) しかし昭和四四年五月以降国鉄が一六万五、〇〇〇名の要員削減などを骨子とする合理化案を作成して生産性向上運動(いわゆるマル生)を展開するに及び、当局側は、浜田駅などのロッカーへのビラ貼り行為についてもこれを許さないとの姿勢を示し、昭和四四年一〇月ころから昭和四五年三月ころまでの間に、同駅輸送室、駅務休憩室、三保三隅駅、岡見駅などのロッカーに貼付されていたビラを剥離する措置に出て国労との間に紛争を起したが、結局当局側において、日常活動としてのビラ貼り行為と争議行為としてのそれとを区別し、前者につき従来の慣行を尊重するという建て前を確認した。
(3) ところで国労は年度末手当の増額などを目的として昭和四五年三月二五日から同月二七日までいわゆる順法闘争を計画し、当局側はビラ貼り行為などを含む一切の争議行為を禁止する旨組合側に申し入れるとともに右闘争に対処するため闘争拠点の一つとなると予想される浜田駅の運輸長室に同月二四日夕刻から浜田地区現地対策本部を設け、本部長として大北秀男浜田駅運輸長を、本部員として、右運輸長付職員である種子忠夫、前高茂儀、矢倉武ならびに米子鉄道管理局から派遣された祖田邦雄、中川勤をそれぞれ配置し、ビラ貼りなどの違反行為の現認、記録、警告、阻止、本部への連絡、報告などの任に当らせた。
(4) そして右対策本部員が待機していたところ、同日午後八時ころ浜田駅構内の保線区材料置場倉庫で組合員がビラ貼りをしている旨の連絡を受けたので、種子、前高、矢倉、祖田などの対策本部員と鉄道公安職員(以下公安員という)の松岡悟、岩崎宏らが現場に駆けつけ、アノラック、頭巾姿の組合員約一〇名が右倉庫北側の壁板にビラを貼付しているのを認めるや、対策本部員らが組合員らの間に割って入りこれを制止したところ、ビラ貼りをやめた組合員らは引き揚げる際に種子、前高、矢倉の被服に糊を振りかけた。
(5) さらに同日午後八時三〇分ころ判示貨物列車(以下本件列車という)に組合員らがビラを貼っている旨の報告があり、前高、矢倉、祖田、松岡が相前後して現場に急行し、前高、祖田、矢倉、松岡の順に縦隊となって本件列車とその北側の五番線上に停車していた貨物列車との間(その間隔約一メートル)を東方から進行しビラ貼りをしている組合員らに接近したところ、アノラック、頭巾姿の組合員約一〇名が本件列車の北側壁面を西方から東方に向けビラを貼りながら進行を続けてくるのに出会った。なおその先頭にいた男(以下件の男という)は刷毛と糊の入ったバケツを持って糊つけ役をしていた。
(6) そこで対策本部員らの先頭にいた前高は、組合員らに対しビラ貼りをやめるよう警告した。その際前高と件の男との身体が軽く接触するや、件の男は、あたかも激痛を受けたかのような様相を呈してその場にうずくまったが、暫らくして後続の組合員らに引揚げの合図をして立ちあがり、西方に向け歩き始めた。そこで対策部員らも西方に移動し、件の男の約一メートル後方を、祖田が追随して約一〇メートル進んだ地点で前方を向いたまま背後にいた矢倉に「この男がリーダーらしいな。」と語りかけ、なお数歩進んだころ、突然件の男が判示のような刷毛を振る行為に出て、祖田が「これが糊をかけた。眼が痛い。」と大声で叫んだ。
(7) その際の各関係人の位置は、祖田と件の男の西方約四、五メートルの地点に前高が、更にその西方に他の組合員らが、祖田と件の男の東方約四、五メートルの地点に矢倉が、その東方約一〇メートルの地点に松岡が、それぞれいた。
(8) 祖田が前記のように大声で叫ぶとともに反射的に件の男の両肩を掴んだところ、その男はバケツと刷毛を持ったままその場にうずくまった。すると西方から組合員の一人(以下奪回者という)が引き返して来て件の男を奪回する気配を示したので、これを近寄せないため、祖田は件の男の両肩を掴んだまま相手と自己の身体を入れ替え、自分は西方に位置して東方を向く体勢となった。
(9) 一方、前高は、祖田の叫び声を聞くや、その方を振り向きとんで行って件の男の片方の手首を掴えたが、その直後奪回者が祖田と件の男の傍に来て祖田の背後(西方)から件の男を引張るなどの動作をした。
(10) このように奪回者が接近してくるのと相前後して、東方から松岡公安官が小走りに駈けつけ、やゝ腰を落して件の男を逮捕しようとしたところ、祖田に両肩を掴まれていた件の男が松岡の肩附近を突いたため、同人は尻もちをついた。
(11) しかし松岡公安官はすぐ起き上り、「お前は公務執行妨害の現行犯だ。逮捕する。」と言って祖田に把えられたまま中腰から既に立ち上っていた件の男の左手を捕え、さらに東方から駈けつけて来た岩崎公安官がその右手をつかまえ、両名で件の男を浜田駅構内の鉄道公安室に連行し、頭巾を脱がせたら被告人であることが判明した。
(12) 他方、奪回者は松岡公安官が接近して来た後件の男の奪回を断念して本件列車の下をくぐって逃げた。
(13) 一方祖田は右対策本部に帰ってもなお眼の痛みを訴えたので、種子が電灯の下で祖田の右眼をみたところ眼の中の白い部分が赤くなっていた。祖田は同日午後一〇時ころ浜田市殿町の松村眼科医院の医師松村寿夫より診察を受け、右眼外傷性角膜炎で加療約一週間と診断された。
三、被告人と犯人との同一性について
(一) 弁護人は、大混乱のなかで、糊をかけた男とそれを奪回しようとした男とがとり違えられ、前者に非ざるものが誤って逮捕されたものであると主張する。
しかしながら既に認定したとおり、本件場所は極めて狭隘なところであるうえ捕えられそうになった男の奪回に赴いたものは僅か一人であり、その前に被害者が糊をかけた男を掴んだまま奪回者の進路を妨げる位置に身体を回転移動させていたのであるから、犯人でないものが誤って逮捕される可能性は非常に少いといわなければならない。この点に関し証人前高の供述中、祖田の大声を聞き振りかえると同人とうずくまっていた男とが上になり下になりの格闘を演じた旨の供述部分は、供述自体不自然であり、≪証拠省略≫と対比したとき容易に信を措き難いわけであるが、仮に斯る格闘がなされたにしてもこれが右の二人の間でなされる限り相手が入れ替るおそれはないものというべきであるところ、当初より件の男に接着していた祖田、前高の両名とも奪回者の具体的動作につき記憶がなく、矢倉も奪回者を確認しておらず、松岡は駈けつけて来た際祖田が掴んでいた男から突かれて尻もちをついたが、奪回者の存在にすら気付いていなかったのである。また奪回者が逃げて行くのを目撃したという証人岩崎の供述も、その供述自体からみて奪回者の逃走地点などについての供述部分は措信し難い。これらの事実を考え合せると奪回者が何らかの行動をとったにしても、せいぜい祖田や前高の背後(西側)あるいは左右の斜めうしろあたりから件の男を引張る程度のことしか出来なかったものと推測され、結局犯人と奪回者とが入れ替る可能性はなかったものと考えられる。
(二) 次に弁護人は、被告人は右利きであるにも拘らず、件の男は左手に刷毛を持っていたから、この点だけでも人違いであることが明らかであると主張し、被告人の当公判廷における供述によれば、被告人が右利きであることが認められ、また件の男が左手に刷毛を持っていたことも前認定のとおりであるが、左手に刷毛を所持していたことからただちに犯人が左利きであると速断することはできず、右利きのものであっても左手で糊をかけること位は不可能なことではないから、右の事実だけでは人違い逮捕であるとの合理的な疑いを生じさせるには足りないものといわなければならない。なお、被告人の供述中には、被告人は刷毛のみを所持していた旨の供述部分があるが、若しそうだとすれば、刷毛のみを所持しているものがビラ貼り役のあとからビラを押える役割をしていたことは被告人の公判廷の供述より明らかであるから、被告人はビラを押える役をしていたことになる。
ところで証人前高の供述によれば、同人が祖田の大声を聞いてその近くに飛んで行った直後に奪回者も祖田に近寄った事実が認められるから、奪回者は前高の西側にいた組合員らの東端部分にいたことが推定されるところ、仮に被告人が奪回者であるとすると、ビラを押える役割をしていた被告人がビラを貼る役割の者達よりも先頭(東側)の部分にいたこととなって不合理であり、被告人が刷毛だけを所持しビラを押える役割をしていた旨の被告人の供述部分は不自然といわねばならない。
(三) また弁護人は、被告人の犯行を否認する態度には首尾一貫性があると主張し、前掲各証拠によれば、被告人が松岡、岩崎の両公安官に捕えられて連行される際に「わしが何をしたというんだ。」と言い、また連行された公安室において、被告人の逮捕を聞いてやって来た国労米子地方本部浜田支部委員長である山崎亮に「どうしたんだ。」と尋ねられて、「委員長わしゃ何もしておらんけえな。」と返答したことが認められ、当公判廷の冒頭手続においても被告人が本件ビラ貼りに参加していることは認めたものの起訴状記載の事実は全面的に否定する旨陳述している。しかし、右の連行途中及び公安室での被告人の各発言が糊をかけた犯人を奪回しようとして犯人と間違えられて逮捕されたから犯行を否認するという趣旨を含んだものであったか否かについては明らかでないばかりか、山崎委員長の右の問いかけに対して、もし被告人が犯人を奪回するに際し間違えられて逮捕されるに至ったとするなら、前記のような被告人の返答だけにとどまることなく、当然間違えられて逮捕されたこと更にはその経緯についても説明するのが自然のなりゆきと考えられるのに、被告人はこの点について説明していないのであり、また当公判廷においても結審に至るまで被告人自身から逮捕時の状況についての弁解や供述が得られず、奇異の念を抱かざるをえないのであって、被告人が形のうえでは成程本件直後から当公判廷の終結に至るまで終始一貫して犯行を否認してはいるが、被告人が犯人であることにつき合理的な疑いを抱かせるには至らないのである。
(四) さらに弁護人は、被告人が逮捕された際松岡公安官の言動に曖昧なものがあったと主張する。この点に関し証人山崎は、「松岡公安官に『両見は何にもしておらんと言うが、どうしたんかいの。』と聞くと、松岡は『両見ともう一人おった。その二人のうち誰かが当局側の職員に刷毛で糊をかけてその糊が眼に入り傷を負わせた。そのための現行犯で逮捕した。』と言いました。それで、他のもう一人がやったこともありうるじゃないかと思い、松岡に『こういう場合の現行犯逮捕ができるような法律の条文があったら見せてくれんか。』と言ったら、松岡は黙って下を向いたまま何にも返事をしませんでした。」と供述し、他方証人松岡は、山崎に現行犯逮捕ができるような法律の条文があったら見せてくれんかと問い詰められて黙していたことを認めたが、被告人のほかにもう一名いてそのいずれかが祖田に糊をかけたと言ったことを否定して、「山崎委員長が『どういう理由で逮捕したか。』と言うので、『被害者が、この男が糊をかけた、と言った。』と説明しておりましたところ、その言葉尻をとって『その被害者を連れて来い。』と山崎と原田が交互に言いますので『被害者は今病院に行ってる。』と言うと『病院からすぐ連れて来い。』というようなもうわめき散らすということで、私も相手にしてもだめだと思って私はやめました。」と供述し、松岡公安官が被告人を現行犯で逮捕したことに対する山崎委員長の抗議・問詰が、松岡公安官の「両見のほかにもう一人いた。」との説明を受けてなされたものか、あるいは松岡公安官の「被害者が犯人を指示したから逮捕した。」との言葉尻を把えてなされたものか対立しているのであって、右両供述自体の検討だけからはいずれが信憑力あるものかを判断することは困難である。そこで残る証人岩崎の供述をみると、同証人は、松岡公安官が「二人いた、そのうちの一人が両見だ。」と山崎委員長に説明したことは記憶にないと述べ、「山崎委員長が抗議に来て『なんで逮捕するんだ、同じ国鉄の釜の飯を食っておきながらなんたることをするか。』というようなことを言いました。松岡は『人の眼に糊をかけてケガをさせるというのはあなた方の指導が悪いんだ。』というようなことを言った。山崎は『糊をかけたかどうかはっきりわからんのに逮捕ということは何事だ。任意で捜査されるべきだ。』と言った。」旨供述している。この岩崎供述中注目しなければならないのは、岩崎が「二人いた、そのうちの一人が両見だ。」と松岡が山崎に言ったことは記憶にない旨供述したうえで「糊をかけたかかけないかという事実はまだはっきりわからんではないか。」と山崎が抗議した旨供述している点であって、後者の部分を卒直に読み取るならば、これは「被告人のほかに犯人と考えられる者がいるから、被告人が糊をかけたかかけないかという事実がまだはっきりしない。」との趣旨ではなく、「糊をかけたかかけないかという事実自体がまだはっきりしない。」との趣旨であると考えるのが自然であり、また≪証拠省略≫を総合すると、山崎と松岡公安官との口論は山崎の供述全体から窺われるような理詰めのものであったとは認め難く、両者ともかなり激越な調子で応酬したことが認められるのであって、松岡が山崎に「条文があったら見せてくれ。」と問い詰められて黙していたのは、松岡が供述するごとく山崎に言葉尻を把えられて追求され同人と口論することを断念したにすぎぬものと認められる。なお、≪証拠省略≫によると、山崎は松岡との右口論ののち、要求があれば被告人を出頭させると言って、公安官らが異を説えなかったところから被告人を国労事務所に連れ帰り、その後大北運輸長の了解のもとに被告人を帰宅させた事実が認められるのであるが、公安官である松岡らがこれを黙認したからといって、同公安官が被告人が奪回者であったかもしれぬとの危惧を抱いていたことの懲憑とすることはできない。したがって、逮捕後の松岡公安官の言動から同公安官が奪回者を本件犯人と誤って逮捕したのではないかとの疑問を生じさせる余地はないものと考えられる。
以上のとおりであるから、被告人と犯人との同一性は肯認できるものというべきである。
四、暴行の成否について
弁護人は糊刷毛を後方に二回振った行為が被害者祖田の身体に糊をかける目的でなされたものではないから、これを刑法二〇八条の暴行と評価することはできず、また仮にこれが同条の暴行と評価されたとしても糊が祖田の眼に入ることまで予見しえたとは考えられないから傷害罪は成立しない旨主張する。
しかしながら先に認定したとおりの当時の事情からすると、被告人ら組合員が対策本部員らに対し相当程度の対立感情を抱いていたことが推認され、しかも前認定のように被告人が被害者に直ぐ後を尾行されたうえ、判示のような言辞を弄せられれば、同人に対していやがらせをしようという気持が生ずるのも充分想像しうることであって、しかも≪証拠省略≫によると、被害者に振りかけられた糊の量は明らかではないが、極く微量ともいえず、前述のようにこの糊を含んだ刷毛を判示のような方法で二度までも後方に振るという行為をなし、その際被告人において直ぐ背後に人がいることを察知していたことも前認定の事情から充分推測されるところである。
以上のような本件所為の原因、動機、態様、被告人と被害者との距離関係などを綜合すれば、被告人の糊を振った行為は専ら刷毛に付着した糊を廃棄する意図だけでなされたものではなく、背後にいる人間(尤もこれが祖田なる人物ということを知っていたか否かについては明らかでない。)に糊を振りかけてやろうという目的をも含んだものと認めるのが相当である。そうだとすれば、被告人の本件所為は被害者祖田の身体に対してなされた有形力の行使であり、暴行罪にいう暴行と評価されなければならないものである。
更に被告人が被害者の目の中に糊を入れるまでの意図を有していたことを認めるに足る証拠はないが、前述のような被告人と被害者との位置関係、刷毛の大きさ、糊の量、刷毛の振り方などから判断すると、眼などの部分に糊が入ることを予見することが全く不可能であったとはいえないから、被告人の右暴行によって判示のとおり被害者祖田の右眼に糊を付着させて傷害の結果を発生させた以上傷害罪に問擬されるのは止むを得ないことである。
以上説示のとおり弁護人の主張はいずれも採用できない。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二〇四条、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号(刑法六条、一〇条)に該当するから所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金一万円に処し、右罰金を完納することができないときは刑法一八条により金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとする。
(公務執行妨害罪を認めなかった理由)
本件公訴事実中「被告人は判示日時場所において貨車にビラ多数を貼りつけていたところ、その制止などの任務を有する米子鉄道管理局職員祖田邦雄がこれを認めて制止するや、判示のような暴行を加え同人の公務の執行を妨害した。」との点につき、弁護人は、被害者の本件ビラ貼り制止行為は適法な職務執行とはいえず、また本件発生時において右制止行為は完了していたから職務執行中とはいえないと主張するので、この点検討する。
公務執行妨害罪が成立するためには、公務員の職務行為が適法であることを要するのは言を俟たないところであり、そのためには公務員がその行為をなしうる具体的職務権限を有していることが必要であるところ、本件においては前述のとおり、米子鉄道管理局職員たる祖田邦雄が同管理局長より浜田地区現地対策本部の職務に従事すべき職務命令を受けて同本部に配属され、同本部長指揮下にビラ貼りなどの行為の現認、記録、警告、阻止、本部への連絡、報告などの具体的権限を付与されていたことが明らかである。そして前認定のとおり、祖田は、本件列車にビラが貼られているという連絡により他の対策本部員らとともにその場に赴きビラ貼りを止めるよう警告し、これによって右列車に対するビラ貼り行為を一応やめた被告人らが西方に向って引き揚げ始め、そのあとを追随して一〇メートル以上も進行した際被告人から判示暴行を加えられたものである。ところで右ビラ貼り行為が正当な組合活動といえるかについては、ビラ貼り活動に徴表される労働法原理と施設管理権に徴表される市民法原理との調和のうえに立って判断さるべきであるが、その点はさて措き、本件が祖田の職務執行中になされたものか否かについて検討を加えるに、前述のとおり被告人ら組合員が警告により本件列車に対するビラ貼りをやめて引き揚げ始めたのであるから、一応この限りでは右の制止はその目的を達し終了したものと認められ、祖田自身も右と同様に考えていたものと推測されるのである。然らば祖田の被告人らに対する追随行為をどのように考えるかであるが、被告人らが立ち去った距離から考えると、右追従行為をもって制止行為の継続とみるのは困難であり、祖田自身も、この点に関し、「ビラが西方より貼り始められているので、どの位あるか確認することと、それを剥ぐことと、組合員らがさらに他の場所に貼るおそれがあったのでそれを監視することを目的として被告人らについて行った。」と述べているのである。しかしながら祖田が被告人のあとを追従するに際し、貨車に貼付されていたビラの状況などを特に注視しながら進行した形跡もなく、また矢倉のように貼付されたビラを剥離する行為に着手していなかったことは明らかであり、しかも当時所持していた懐中電燈で専ら前方を照していた事実からすれば、貼られていたビラを確認する目的があったという点は容易に措信し難く、また右ビラを直ちに剥ぐつもりであったという点も周囲の状況に鑑み多大の疑問があるといわねばならない。
更に組合員らが他の場所にビラを貼るおそれがあったのでそれを監視することを目的として被告人らに追従したとの点については、組合員らが既にビラを貼付し終っている西方に引き返し始めている以上もはや本件列車自体に対するビラ貼りがなされるおそれは客観的には殆んどなくまた対策本部員や公安官らが本件ビラ貼りの現場に居るかぎり五番線の貨車にビラを貼り始めるおそれも、全く否定できないにしても、客観的には極めて僅少であったものと認められ、祖田が抱いた「他の場所」でのビラ貼りの危惧とは本件列車及び五番線の列車以外の駅構内の他の場所であろうと推測されるのであるが、しかし組合員らが本件列車から離れてのちなお組合員らが国労事務所などに引き上げるまであくまでも組合員らの駅構内での行動を監視し見届けるとのはっきりした意図のもとに祖田が被告人らに追従していたものと認めることは、祖田に後続していた矢倉が貼付されたビラの剥離にとりかかったことに照らしてみても、祖田のみがかかる監視行為に出るべき特別の事情もないのであるから不合理であるといわざるをえない。
結局祖田が被告人を追従した際、祖田において被告人らが他の場所でビラ貼りをしないようこれを牽制する目的や組合員の人数、そのリーダー、引き揚げ先などを探索する目的を全く持っていなかったともいえないが、本件現場の状況や同人の行動全体を観察すれば、同人は殆んど具体的な意図はなく、唯漠然と行動していたとみるほかはないのである。
ところで公務執行妨害罪において保護さるべき職務というものは、公務員の勤務中の漠然としたすべての行為ではなく、具体的、個別的に特定された職務でなければならないところ(昭和四五年一二月二二日第三小法廷判決、集二四巻一三号一八一二頁参照)、前記のとおり祖田の右追従行為は勤務中の行為ではあるが、明確な意図のもとになされたものではなく、ことのなりゆき上ただ漠然と組合員らのあとをつけたにすぎず、具体的に特定された職務というには十分でないから、同罪にいう職務には該当しないというべきである。更に被告人の暴行が祖田の右追従行為の際加えられたものであることは前認定のとおりであるから、右は同人の職務の執行にあたりなされたということはできない。そこでその余の点を判断するまでもなく、公務執行妨害の点は証明がないことに帰するが、判示傷害罪と一個の行為にして数個の罪名に触れるものとして起訴されたものであるから特に主文において無罪の言渡をしない。
よって主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 芥川具正 裁判官 那須彰 中村謙二郎)